山渓遊びブログ 渓流釣りと採集

岐阜県から 山渓アウトドアライフ

差別を考える

私の従弟に、先天性の知的障碍者が居ます。昭和の時代は今よりも差別意識が強かったと思います。

私自身が従弟と接する中で、学んだことは多かったです。少なくとも、偏見のフィルターは掛けませんでした。

誰も後天的に障碍者になることは有り得ます。その際に社会が排除の対象としないよう、様々な仕組みが作られてきました。

支援施設が出来、そこに雇用が生まれ、関係業者が居て、経済社会が回る。従弟はその一員です。

日本では、少数弱者を差別する風潮がずっとあると私は思っています。そしてそのことに無頓着、もしくは無意識な人が多い。

日本人は民度が高い? そんな人も居ますけど、そうでない人もまた一杯います。

言葉として、「出る杭は打たれる」とか、「村八分」とか。学校の謎校則もですかね。

ハミダシ者を認めず、そこにペナルティーを課す。

これを擁護するなら、村社会のコミュニティーの安定が図られた面はあるかも。

 

ちなみにもう一つ、「出過ぎた杭は打たれない」ですね。オタクを馬鹿にする人はいますが、博士は尊敬されるのです。「寄らば大樹の陰」で、杭がデカくなると、人が集まります。力のある人は差別を受け難い。

田舎に訪ねた人を「余所者」と呼び、都会に出た人を「田舎者」と呼ぶ。これなんか、普通にある差別ですね。

あからさまに差別意識を出すと刺されるから、普段は出さないだけ。それは他者への心遣いでなく、我が身可愛さの行動原理ではないかな。

 

近年なら、コロナウィルス感染した人の家に投石したり、他県ナンバーの車に傷付けたり。ナントカ警察なども出ましたね。良い年した大人がそんなでは、子供のいじめもなくならないでしょう。

随分前には「ハンセン病差別」があり、ちっとも進歩してません。病人が出たなら、寄り添う姿勢こそ大事だと思うのですが。

日本国内でこうしたことが起こりがちなのは、島国民族の同質性ゆえかと。自分と異質な?存在に、不安を感じるのかもしれないです。

 

世の物事には常時、良悪の面があります。

全ての人に都合の良いものなどなく、同質性を求めると、そこから弾かれる人が出てしまう。

同質性の押し付けを「同調圧力」と言いますね。これを時に「思いやり」なんて言葉で他者に押し付けるのは、おそらくやってる方は無意識でしょう。

多数派と同じように振舞う事で自己防衛するのは自由ですが、それを他者にも求めるのは、多様性の観点からは間違いです。

人と人の揉め事は、「自分の意見は変えないが、相手の意見を変えたい」同士で起きます。要するに、自分の都合の良いように相手を改変しようとする。自分が変わらないのに、どうして人を変えようと想える? 

そんな理屈が通るはずがないのですが、それを通す方法が、差別。自分(達)と違ったものは排除する論理ですね。放置で良いなら、人を変える必要も、差別も要りません。差別の前に、意見交換とか、説得を試みるとかは、事によってはあるかもですけどね。

 

私自身、こうした社会の風潮は「そんなものだ」と考えています。否定しても仕方なく、しかし肯定はしません。私にとっては「だから、どうするのか」が大事です。

趣味でも仕事でも、成功者が少数派(出る杭)なのは間違いないですしね。

従弟が今も支援者と出勤して働き、社会の一員であるように。

人は本来、個々に存在の意味が違います。何が好きで、どうしたいかも違うのですから、皆と同じに揃えることで幸せになる人ばかりではありません。

リスクを捨てて大樹の陰で安全を取ると、かえってストレスを抱える人は多くなるのではないかな。

社会性の面では同調も時に必要ですが、程度の問題で、個性を封じず伸ばす方が、幸せが増えるのではと想っています。