「人が悩み苦しむのは、その対象に執着するから」
何宗か分からないですが、仏教の僧侶のコラムから。なるほど、と思いました。私は無宗教派で、何教の何宗からであっても、良いなと感じたことは取り入れるスタンス。
事、物、人、何であっても、それが好きであるほどに大切に想うわけで、その想いが強ければ強いほど、失う痛みが強くなる。また思い通りにならないと、焦り、悩み等から、辛くなるのは本当ですね。
仏教は、生老病死、生きることは即ち苦を伴うものである、と説きます。これは確かに。私自身、特に仏教を深く学んでいませんから、解釈間違いをしているかもですが。
執着、執着心は、ネガティブな意味合いで使われます。人や物事に心が強く捕われている状態で、その事が悪影響を及ぼす際の言葉。ちなみに執着の対義語は「断念」。
好きな対象を思い通りにしよう、自分の支配下に置こう等の考え方と行動に出るのは、時に問題が起きますね。対象が「他者」であるなら尚更です。
好きな事柄を持つこと自体は幸せでも、それが思い通りにならないストレスで身を焼くようでは、逆に不幸せになってしまいます。何に思いを寄せるのも自由ですが、度が過ぎる我儘は災いの元。
しかしながら、失う痛みが嫌だから「断念して」好きにならない、と言うのは、何だか違うような。どうしても上手く行かないようであれば、諦めることも必要かと思いますけどね。
何に対してなのかと、その意識の扱い方の問題とも思えます。大事にしたいものがあるのは、その事を考えるだけでも幸せになれますから、好影響にもなり得るはず。
執着とは、どこかに無理がある、自身のコントロールが効かない物事を思うようにしたい心理に固執してる、意識の歪みを指すのかもしれません。
私は渓流釣りが好きで、プライベートの時間は意識を全振りしても良いと思ってます。もし何かの理由で失うとしたら、かなり痛い。
目的があって釣りをし、それを叶えたい意欲が強いなら、期待通り(もしくは期待以上)の結果を望むのは当たり前のこと。しかし、望むように展開する釣行は稀にしかなくて、上手く行かずに悶々とする時は幾らでもあります。
ここを達成の為の努力をする動機にしていられるのなら、そしてその事で釣り以外の生活が乱れないのであれば、心捕われる状態は悪影響にはなりませんね。
自分で為せることに集中するのと、自分以外の何物かを思い通りにしようとするのと、つまり自身の内側と外側の、どちらに意識が振られているか。
対象となる渓や魚は自分の外側にあり、そこで何を取り組むのかは自分の内側にあります。自身の能力を上げることで、望みの成果を引き寄る可能性は高められる。
私は渓流魚を求めて釣りをしていますが、「釣果に執着して失敗する」みたいな事は起きてないと思います。また類語に「依存」がありますが、これまた私は自分には当て嵌まっていません。むしろ日頃の生活にも活力が出て、好影響。自分ではこれを執着・依存でなく「情熱」と認識しています。
好きであるが故に、思い通りにならず苦しい、また失う痛みが強い。これは確かですが、その辛さはつまり、幸せの源でもあると思います。