真剣に釣りをする。
それには、時間、労力、そして幾らかお金が掛かります。
情熱があるからコストが掛けられるのか、コストが掛かるから情熱が出るのか。これは編んだ縄のようなもので、両面ありますね。
コストを掛けるのは、目的となる結果を近付けたいから。しかし更にその先があって、実は目的が達成出来るか否かでなく、自身が充実を感じ、幸せになることが最終形です。これは「趣味の」と頭に付けずに、「人生の」と言っても良い。
最終形に行くには、目指す目標があった方が取り組みがブレ難く、明確な意思で挑んでいる方が達成した際に充実度が高まります。
義務のない趣味で一所懸命に取り組むのは、私の場合は、目的となる魚が釣れた時に、幸せを感じるから。
そこには明確に「魚を捕る」という目的が存在していて、内容は人の数だけあります。また個々人で、釣行ごとに設定を変えてる人も多いかと。魚の数なのか型なのか、あるいは特定の河川や釣法等の攻略なのか、またまたそれらの組み合わせなのかとか、本当に様々。
好きなフィールドの空気感に浸るだけでも幸せは感じます。だけど私は釣り人なので、景色を眺めただけでは満足しないのです。綺麗な景色を眺めに行くだけなら、釣り竿を持って行く必要はないのですが、違いますのでね。
その日その日の条件を見て、狙う結果が出せるよう、道具や釣り方を工夫する過程にも楽しみが詰まってます。
ただし、真剣に釣りをしている最中は、実は楽しくないです。これはスポーツ選手が試合中には笑わないのと同様かと。
釣れた時の嬉しさは、掛けた熱量により大きくなります。努力の意味とは、まさにこれ。一所懸命に取り組むと、喜びが大きく育つ。しかし思うように釣れなかった時には悔しさや悲しさもまた大きくなる。これらは表裏の関係です。
釣れなくても悔しくないなら、釣れても大して嬉しくない。釣れたら爆発的に嬉しいのなら、釣れなかった時、特に魚をハリに掛けたがバラした時などは、崩れ落ちる程に落胆するものです。
嬉しい方も、悔しい方も、次に釣りに行く燃料になるのは同じ。
好釣果が嬉しかったのなら、更に良い結果が欲しくなり。貧果が悔しかったら、次こそはと気合を入れる。
そんなに気張らず、ほどほどに、笑いながら、休憩挟みながら、緩く釣りをするのも時には良いものです。しかし私的には、ノンビリとした休日を過ごすのは基本的に好みません。
釣りを追い掛ける過程に楽しさを感じ、成した結果に感動できるように力を入れることを、情熱を掛けると言うのでしょう。そしてその状態になれた時、すでにその釣り人は幸せで、結果として狙いの釣果と出会えたら、更に幸せなのだと思います。