山渓遊びブログ 渓流釣りと採集

山渓のアウトドアライフ

魚を釣ることの意味

私は渓流釣りでは、釣れた個体を観察しその意味を考えることが好きで、自分の考察に釣りの技術に乗せることが楽しいです。

釣りを通して、対象となる魚と自然を、より知りたいと考えているんですね。ある種の知的好奇心、でしょうか。

 

 

自然河川の渓魚は、同種でも一尾ごとに色合いや姿が違います。それが季節の移ろいとともに変化する。

この差異は育った環境とも関係していて、居場所や行動の違いに現れます。逆説で、居場所や行動が違うと魚体に差異が出る、とも言えますね。

渓魚には移動性に個体差があり、私はざっくりのタイプ区分で、居着き魚、遡上魚、移動魚、としています(私的区分なので、分け方が一般と違うかもしれません)。

どのタイプでも全く同じ行動を取るとは限りませんが、移動性の大小は渓魚の姿型に大きく影響するようです。

同一河川でも、流域により魚体に特徴が出て、これは保護色の意味合いや、摂っているエサの種類などで分かれるものでしょう。

それが一年目の若魚と、二年目三年目の魚では、色合いも骨格も違ってきます。生きた年数の差も姿を変える要素の一つ。

そしてこれらの差異が、釣りの反応の違いにもなっているだろう、と。

 

 

釣りをすると、その日、その場所で、魚が川底近くに沈んでいたり、中層に浮いていたりと様々。そして出てくる魚の姿は結構にバラバラ。

どんなサイズがどれだけ釣れたか、それは大事なことですが、それらがどの場所で、どのタイプが、色は、形は、何年生で、成熟度は、コンディションはと、私には後半部分はとても大事です。

 

狙いの魚を釣るために、何処でどんな技術を繰り出すか、あるいは、どんな釣り方でどんな魚に出会えたのか。

居場所、ハリの掛かり方、泳ぎ方とその強さ等々、釣ることが出来た時に、その魚の性格や性質を、釣りから感じるように思います。

 

そして育った場所の川底や水の色を映した魚体が直に見られます。釣り上げた後の数瞬で、魚体の色は変わっていってしまうのです。

小渓流では色の濃いパーマークの浮いた個体が多く、大きな本流域ではそれが薄い。本流域では鱗の反射が目立つ銀化もしくは半銀化した個体が多く、これは大型化し易いことが知られています。

 

色合いが薄い個体は、遡上した小渓流でも出会える可能性はあります。こうした場所では居着き型も移動型も混在し、遺伝が多様化します。

対して滝や堰堤で隔絶された水域では、そこに居着いている魚たちで世代交代が繰り返されています。姿の固有性と言う意味では、遺伝的系譜が交じり合っていない隔絶区の魚は、見惚れるほど野性的です。

 

さらにそれらの中でも、飽食して太ったもの、痩せたもの、特に色が濃い薄い、渓魚は本当に多様。ここに強い魅力を感じます。

イワシでもアジでも、淡水ならウグイとかアブラハヤとか、他魚種で数が多いものだと私は正直、同寸なら個体差が分かりません。個性的な渓魚も、生まれて間もない稚魚のうちは数が多く、強く特徴が出ないですね。

 

私は釣り人ですので、出向いた河川で釣れた魚から、その環境を推し量ります。

どんな姿の魚が、どれだけ釣れたか。自分が目的とする魚だけで自然は出来ていないので、数が少ないのが良くない環境とも言い切れず。

しかし一般的な渓流域で、多くの野生渓魚が釣れるのであれば、それは彼らの棲息に叶う環境と言えると思います。

大型が良く釣れるなら多くの子孫が残り易いでしょうし、サイズは小さめでも数が多ければそれもまた。

 

ただここで、釣れない時が自分の腕前不足なのか、環境面での理由なのか、判断が難しい。

釣果は釣り人の能力と、条件の掛け合わせ。どうしても自然相手の遊びでは、好条件ばかりではないですからね。

 

大物が釣れたら嬉しい、数多く釣れたら楽しい。

それは確かですし、釣果が上がることで、様々な魚の観察が叶い、その環境に触れ、知ることが出来ると私は想っています。

 

水害で荒れた河川で渓魚が釣れて、棲息に感動したこともあり。あれでよく生き延びていたなと。

残念ながら、工事後は渓魚が棲めなくなった河川も見ました。

それもこれも、釣りを通して知り、感じられることです。